だから絶対、手に入れて見せるよ。
048:きみをうつくしいとずっと思ってた、誰よりも何よりも
写真館の外はいつも通りの喧騒に包まれている。馬車や車の音が乾いた白砂を蹴散らし、数日前の雨の名残などもうない。規制に対してはゆるい考えを持ちがちな土地柄上、幌で天を覆っただけの露店には紛い物とさえ言えないような模倣品も横行した。それでも季節感があるようで冬には何か野菜の切れ端を煮込んだようなスープ、夏には氷菓と商売で扱う品も変わった。葵自身は季節毎に箪笥の中身を入れ替えるような性質ではないからせいぜい上着を脱ぐか着るかの変化しかない。同居人の伊波葛はもっと几帳面できちんと夏季と冬季では違う服を着ているというが見た目が同じようなものしか着ないから、変化が判りづらい。糊の利いた上着と真白なシャツに折り目のついたズボンは裾までぴっちりと隙なく着こまれている。
葵の目が机に向かって書類仕事をしている葛に向けられる。葵のように書く時間と量に比例して前屈みになっていくこともなく、棒でも入れたかのようにしゃんとした背筋だ。今日は少し肌寒いので上着を着ている。出かける際に備えてか、傍の取っ手には外套が吊るされている。前髪を全てあげてあらわな額は陶器の白さで彼の賢しさを示すように傷も炎症もない。化粧筆で刷いたような眉と鋭く切れあがった眦の双眸は玉の煌めきで対象を映しだす。眉目秀麗、白皙の美貌と言うものである。前髪を上げている癖にまだ何となく幼さが見えるのは冷徹になりきれていない葛の性質のようで、葵はいつもそこへ考えをはせては微笑ましくにやついた。唇は紅玉の艶めかしさだが少し薄めで、水商売のようにけばけばしくない。唇を舐めるくせがあるのか時折篝火のようにちろりと艶で潤んだ紅い舌先が覗いた。
葛が顔を上げる。葵はいつも通りにやりと笑った。
「精が出るねー」
「そう言うなら少しは分担…しない方がいいな」
「ひっど! そこは手伝えって言うところじゃないのかよ!」
「お前の書類は書き損じや誤字脱字が多すぎて二度手間だ。用紙も無駄に使う。客あしらいは任せてあるのだからそちらに精を出せ」
黙っていれば日本人形のように綺麗なのに葛の言葉はいつでも辛辣で容赦がない。葵はぶぅぶぅ言いながら長椅子の背もたれへ顎を乗せた。だらしがない恰好なうえに客との応対に使う椅子であるが、ひっきりなしに客が来ると言った繁盛店でもないのでいつしか葵の定位置になった。長椅子に寝そべって葵は読書をしたり昼寝をしたりする。一度昼寝をしていたら椅子ごと蹴り落とされて目覚めた葵を葛が引きずり起こした。寝ぼけた葵を放って葛は扉を開けて、お待たせいたしました、どうぞこちらへ。案内された客は不審げに葵を見た。葵は納得したがもうちょっと優しさと言うか、気遣いのある起こし方でも罰は当たらないと思ったものだ。
それでも葵も懲りずにその後も寝床にするのだからお互い様である。葛は葵が起きている分には口を出さないが眠っていようものなら容赦なく叩き起こす。理由は明確で客の来訪がいつ来るか判らない商売柄、客との応対に使う家具を長時間占有されては商売にならないというのが理由だ。客が来れば葵は素直に長椅子から退くなり相手をするなりするから許容されているらしい。そう言うところも好きだなぁと思う。必要があれば容赦も手加減もしないがむやみやたらに暴力的なわけではない。葛は親しくない相手には優しいし、気も使う。葛が辛辣なのは、そんな己を見せてもこの人間は離れて行かないという子供みたいな信頼の証なのだと最近気づいた。だから葵も葛とは本気で衝突する。双方共に所属する表沙汰に出来ない本業についてから日頃の食卓や献立にまで事は及んだ。だが葛は己に非があると認めれば素直に詫びる。身勝手を押し通す性質ではないのだ。
「…葛ちゃんは冷たいなー、オレは葛ちゃんのこと大好きでずっと見てるのに」
「さっきまで寝ていた奴の台詞かそれは」
しっかりばれている。葵は先刻までうとうとと微睡んでいた。微睡みの中での葛は優しくて葵の髪を梳いたり口づけてくれたり触れてくれたりして、これ以上は不味いな、と思ったところで葵は重い腰を上げて起きたのだ。
葛が帳面を閉じて立ち上がる。え、久しぶりに殴り合い? と葵が身構えるのを怪訝そうな眼差しを投げて葛は奥へ行こうとする。
「何処行くの、葛ちゃん、喧嘩なら受けて立つぜ」
「馬鹿馬鹿しい。現像室だ。受渡期日の迫っているフィルムがある」
葛のカツンカツンと固い靴音を響かせて店舗の奥まった場所で扉の開閉音とからんと札を下げるような音がした。現像に明るすぎる光は厳禁であるから使用中に不意の訪問者がないようにしるしをつけておくのだ。肩透かしを食ったように葵は力を抜きながら、なんだぁ、と長椅子へ腰を下ろした。喧嘩なら、などと啖呵を切ったが葵には葛とまともに殴り合う自信がない。葛自身、葵に殴られた程度でどうにかなるような脆弱な体でも性質でもない。だが葛の容姿は完成された綺麗さで、触れたら毀れてしまいそうな、それでいて雛鳥のように柔軟で強靭だ。両手で包んでやりたくなるような、手に入れたいと思わせる。
「葵」
現像室から出てきた葛が濡れた手のまま歩いてくる。仕事が丁寧な葛にしては早いな、と思っていると葛は紙切れにさらさらと書きつけてそれを葵に押しつけた。
「時間がかかりそうだからこれを買ってこい。写真館の表に閉館の札も下げておいてほしい。少し時間がかかりそうだから、腹が減ったらそこにあるもので何か作って食べろ」
書きつけられているのは食材だ。そう言えば今日の炊事当番は葛である。どうしても優先できない事情をもつ写真館であるから利益は潤沢ではない。毎日店屋物をとれるほどの儲けもない分、自炊で経費を浮かせていくしかない。濡れた手がいつの間にか薄闇に満ちた部屋の中で仄白く照った。写真の現像に使う溶剤であっても頻繁に使えば手も荒れる。それでも葛は桜色の爪先もたおやかに肌理の細かい白い肌を保ったままだ。
「あおい?」
「え、あー、夕飯の買い出しだな、判ったよ。お前が終わるまでちゃんと待つから安心しろよ、閉館の札も下げとくから」
しどろもどろだがなんとか言い繕う葵に葛がくすっと笑って頼むぞと言うと踵を返して戻っていく。
逢魔が時とも言える時間帯に葛の容貌は妖艶すぎた。濡れ羽色の黒髪を上げてビスクの白い額を惜しげもなくさらす。通った鼻梁にちょうどよく整えられた眉。くっきりとした黛のように切れ長な目淵を密に彩る睫毛。瞬くたびに薄く頬骨のあたりへ影を落とすほどに長く、手入れをしているようでもないのに自然と上を向いて巻いた。紅でも指したかのような唇の紅さや眦まで整い手の抜かれていない睫毛。くっきりとした双眸は玉眼の煌めきで潤んだようにあたりを映し、白い頬には傷はおろかくすみさえもない。尖った頤だが顎はしっかりとしていてしつけの厳しい家柄であったことが判る。魅入られてしまう前に葵は乱暴に閉館の札を下げて幕を下ろし、硝子戸を施錠する。裏口から繁華街へと葵はくりだした。
もぞ、と蠢くとそばにいる筈の熱がない。目を開けると葛がズボンを引っかけただけの軽装で佇んでいた。鎧戸を下ろしていない窓から差し込むのは広告灯のけばけばしい明かりばかりだ。白皙の美貌である葛の皮膚は広告灯の瞬きによって、紅や蒼、白や碧と色を移し替えた。乱れた前髪が白い額へ一房二房と落ちている。行為の受け身をとりながら葛はいつも負担など感じさせない行動で葵を怯ませる。
「腰大丈夫?」
「支障はない。ただ少し、まだ、違和感が…」
言いながら葛の頬が真っ赤に染まる。目元までもが化粧したように紅潮し、玉とは違う情欲と恥らいの潤みがその双眸を満たしている。整っている黒髪はよく見れば所々でほつれたように乱れているし、葵の行為が葛に全く影響しなかったとは言えないようだ。葵はそれが嬉しい。うなじや首筋に散る鬱血の跡は葵がつけた痕だ。初めのころは平手打ちさえ喰らったが最近は襟で隠れる位置ならば、と譲歩してくれている。
「オレがまだ中にいるみたい?」
にゃーと口角を吊り上げて笑う葵に葛はふんとそっぽを向いた。少し高い鼻梁が透けたように広告灯の明かりを透かす。葛はぐゥッと言葉に詰まって口元を引き結ぶ。紅い線が一本引かれたように鮮やかで艶めいている。葛の容姿は嗜虐性を呼び起こす。屈服させてやりたい。跪かせて見たい。額づかせてみたい。懇願させたい。葛は葵のそういった、多少歪みさえ帯びた要望に良く応えた。無論、不本意ではあろうが葛の体は少なくとも葵を受け入れてくれていた。その不本意を能動的にさせるために葵は日々殴られながらも葛を閨に誘った。互いに男性体として熱の発散が定期的に必要である。だが特定の恋人など作ろうものなら敵味方関係なくつけ込まれるだろうし、商売女に通い詰めるわけにもいかない。水商売の表と裏に口にするにははばかられる組織が絡んでいるのはいつの時代も同じものである。結果として葵は葛を抱くことを選び、葛もまた熱の発散ができるならと承知したのだ。
窓へ寄り添うように佇む葛はそれ一枚の絵画のように完成されている。広告灯の明かりに染まり色を変える肌の感触と熱を葵は思い出せる。
「すきだ」
自然と溢れた言葉だった。
「かずらは、きれいだ」
葵自身、語学には堪能であると自負している。それでも言い表せるような言葉が見つからなかった。葛が好きで、葛は綺麗だと、思った。
平らで白い葛の腹部に暗渠が開く。へそだ。尖った腰骨がそのまま脚の間へと続く暗渠を生んでいる。ズボンで隠されているもののそこに眠る器官は葵を魅了し、満足させる。だが同時に罵声も覚悟した。葛の自己評価は葵のそれほど高くないのだ。葵が葛を褒めるたびにそんなわけあるか馬鹿者めと叱られる。バッと両腕を上げて平手打ちさえ堪える心算で緊張した葵に葛は何もしない。おそるおそる腕を下げて栗色の双眸をめぐらせれば意外な光景がそこにあった。葛がふぅわりと微笑んでいる。潤みきった漆黒の双眸が眇められてネオンで何度も瞬くように照る。手加減はしても容赦はしない平手打ちを繰りだす手は窓枠へ、葛が重心を預ける支えになったままだ。葵が不審を抱くのを見て葛がくすりと笑う。
「ありがとう」
紅い唇が紡いだ後に薄く広がる。笑んでいる。口紅棒で引いたというより紅筆を使ったと言った方が正しそうに薄く、けれど妖艶に紅く熟れた唇に葵は吸いつきたくなった。その薄く白い皮膚の内部に眠る骨格さえもが広告灯のけばけばしい明かりで暴かれそうだ。その白皙と対比されるように髪や睫毛は密に黒く縁を彩り、うなじを隠す。
「かずら」
「あおい」
「ありがとう」
照れたように笑む葛の眦は紅く火照って潤ませる。それだけで葵はため息をつきたくなる。落胆のそれではなく感嘆だ。葛はどうあっても葛でそして、美しいと思う。白い半裸身を晒しながら葛自身に情欲はなく、それでいてその体躯は艶めかしく欲を煽った。
「あぁ、かずら、おれはおまえがだいすきだよ」
たとえその手が血まみれであっても。
特異な能力を有していても。
お前がオレを、見ていてくれなくても。
おれはおまえが、うつくしいとおもう。
《了》